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2011年2月アーカイブ

はじめまして。通りすがりの高3女子です。

偶然ココを見つけたので質問(お願い?)をひとつ。

今ちょうど私大入試が終わり結果待ちですが3連敗。

あと2つも望み薄って感じです。

25日に国立大を受けるんですが

センターでこけたので逆転は10%ぐらい・・・。

がんばろうとは思うのですがやる気が出ません。

こんな私に何かお言葉を。(お忙しければ無視して下さい)

 

どうも、藤田です。

最後の言葉、なかなか良いですねぇ。

単純な私は見事にひっかかって、「お言葉」を探しています。

あなたは生きていく能力がありそうなので!少し安心しました。

正直、いい考えが浮かびませんが(軽い突っ込みPlease!)、

虚脱感でいっぱいになった時、私がよく使うのはこんな手です。

 

  不合格? べつに落ちたって命まで取られるわけじゃなし、

  その命にしたって、そのうち消えてなくなるわけですよ。

  すべてが等しく塵にかえる。人間、動物、自然、そして地球も。

  長い宇宙的時間の中では、錯覚とも見まごう一瞬のきらめき。

  虚しい? いや、これは歴然たる事実。すべてが元に戻るだけ。

  ・・・さてと、後は国立大入試か。よし、塵の意地を見せたろかぁ!

 

 

どんな立場の人であろうと 

いつかはこの世におさらばをする

たしかに順序にルールはあるけど 

ルールには必ず反則もある

街は回ってゆく 人1人消えた日も

何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと

 

100年前も100年後も 

私がいないことでは同じ

同じことなのに 

生きていたことが帳消しになるかと思えば淋しい

街は回ってゆく 人1人消えた日も

何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと

かけがえのないものなどいないと風は吹く

 

愛した人の席がからっぽになった朝

もうだれも座らせないと

人は誓ったはず でも 

その思い出を知らぬ他人が平気で座ってしまうもの

 

どんな記念碑(メモリアル)も 雨風にけずられて崩れ 

人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう

だれか思い出すだろうか 

ここに生きてた私を

 

100億の人々が 

忘れても 見捨てても 

宇宙(そら)の掌の中 

人は永久欠番 

宇宙(そら)の掌の中 

人は 永久欠番

 

『永久欠番』 作詞・作曲 中島みゆき

 

 

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t-fujita@te.urayama.ac.jp

2011年2月17日 |

金沢大学・富山大学の受験生に贈る、合格への最後の一押し!

2月22日(火):金沢大学ファイナルトレーニング

2月23日(水):富山大学ファイナルトレーニング

もう一度、各学部に特徴的な問題を題材に、 解法のポイントを明確にしておこう。

時間割・申込方法はコチラをご覧ください。→ 金大富大ファイナルトレーニング.doc

2011年2月14日 |

 今年の1月2日、上市中学校の同窓会がありました。  30数年ぶりの再会 です。

わが3年3組は44名中半数近くが出席でした。上市中学の生徒のおよそ9割は

上市中央小学校からの持ち上がりなので、昔話は小学校低学年までさかのぼり、

いたるところで、「なつかしいね~」「変わっとらんね~」の声があふれていました。

 

 それにしても「なつかしさ」がもたらす 無条件の心地よさ はいったい何なんだ?

少し考えてみると、なつかしさは 記憶 と結びついていることがわかります。

 

 ① 自分が覚えている記憶、または覚えていて他者と共有できる記憶

   (例)誕生会で自宅に来てくれた友達の岡部君を逆エビ固めで泣かしたこと。

 ② 他者、あるいは何かのきっかけで呼び覚まされた自分の記憶

   (例)「たかちゃん(=私です)のことで強烈に覚えているのは、走り幅跳びのとき

      ふざけて両足踏切空中1回転跳びをやっていたことだなあ~」

      「ああ、そんなんやってたね~」(過去の俊敏だった自分に出会えた!)

 この2つはきわめて普通のことですが、もう1つ、感じたことがあります。

 

 ③ 自分には記憶がなく思い出すこともできないが、誰かがちゃんと覚えていること

   (例)「覚えてる? 学級新聞の編集の時に私たちケンカしたんだよ~」

      「う~ん。覚えてないなぁ。そんなことあったっけ~。(なんか良い気分)」

 大切なのは、 誰かが「私の知らない私」を覚えている  ということか。

 (上記の①②だけではなく、③まで含めて「記憶、思い出」と考えたい)

 

信じがたい苦難に出会うと、私たちは自分の記憶ごと真っ黒に塗りつぶされるような

感覚に陥ります。そんな時、 他者の記憶に生きる私  を想像してみては?

 

 ・誰かが、私も覚えていない小2の私の泣きべそを覚えている。

 ・誰かが、私も思い出せない小5の私の照れ笑いを覚えている。

 ・誰かが、私が記憶から消したがっている私のラブレターを覚えている。

 

私という存在は、思っている以上に広く存在しているのではないか。

私自身はこう考えることで何か救われた感じがします。人生は生きるに値するなぁ。

「そんな簡単なことで救われた気になるなんて、おめでたい人だ」

そう、私はこんなにもおめでたい人なのだ。 想像力 ですよ、想像力。

 自分というカプセルの中で自家中毒になる前に、 他者の中に偏在する自分

のイメージを想像してニンマリしてみるのも良いんじゃないかなぁ。

 

ロシアの作家ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の最終場面で、

アリョーシャは石のそばで少年たちに演説します。

「良き思い出、とりわけ子供時代から、とりわけ両親の家から抱いてきた

思い出くらい先々、生きていくうえで、貴重で力強くて、健全で有益なもの

はないのですよ。教育ということについて、君たちもいろいろ耳にするでし

ょう。子供時代から保たれてきた何かそのような美しい神聖な思い出こそが、

おそらく、この上ない良い教育なのです。生きるに当って、もしそのような

思い出を沢山集めえたならば、人は生涯にわたって救われるのです。例え

たった一つの良き思い出であっても、私たちの心に残っているならば、

いつかは、わたしたちの救いに役立つのです」

 

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2011年2月 5日 |

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